2002年春「Strange Place For Snow」と言うアルバムがUSで出るので、日本でどうだ?と言う資料が送られてきました。はじめは名前の読み方もままならず、本国に電話で名前の読み方を確認しながらのスタートでしたが、音を聴いて一発でヤラれました。抜群のテクニック、ピアノ・トリオと言いながらエレクトリックな要素も持ち込んだサウンド作り、リリカルでオリジナリティ溢れる楽曲。海外メディアの評判も絶賛、本国スウェーデンではマドンナやレディオヘッドと並んでチャートを射止めるほどの人気。スウェーデン版のグラミーも2度受賞。まさに21世紀型のピアノ・トリオと称するに値する素晴らしいアーティストでした。
ただし、当時の日本ジャズ・シーンにこのサウンドが受け入れられるのか、非常に不安もありました。特にエフェクターを多用するようなスタイルが、ピアノ・トリオと言えばビル・エヴァンスやキース・ジャレットを始めとするアコースティックなサウンドを求める日本のお客さまに聴いていただけるのか?
しかし不安は杞憂に終わりました。アルバムのリリース後、その素晴らしい評判はみるみるうちに広まり、翌年春にはかつて【ライヴ・アンダー・ザ・スカイ】を企画された鯉沼ミュージック企画制作による【The Synergy Live 2003】への出演が決まり初来日も果たしました。その後も定期的な来日公演を果たし、あのキース・ジャレットにしてエスビョルン・スヴェンソンのことを「いま最も注目するピアニスト」と評し、日本ジャズ界ではザ・バッド・プラス、ブラッド・メルドーと並んでピアノ3アーティストが熱い注目を受け、クラブ・シーンでもレコード番長の異名をとるDJ須永辰緒氏にして「日本一のサポーター」と言わしめるほどの人気でした。
僕にとって彼らは初めてのスウェーデン人だったのですが、彼らといろいろ話していると日本人とは非常に感性が近いんだと思いました。そのため、彼らの作る楽曲や演奏が日本人に受け入れやすいんじゃないかと。彼ら自身も大の日本贔屓となり、とりわけ日本の食事は最高だと評し、いつも来日を楽しみにしてました。
その後、2006年に私が社内異動でジャズの現場を離れ、時を同じくしてe.s.t.も日本での契約が他社に移りました。しかし、彼らとの個人的な親交は続いていたので、来日時にはコンサートに足を運び、一緒に食事したりもしてました。2007年秋、エスビョルンからメールがあり、暫く休んで世界各地を家族で旅行するんだけど、日本にも行くから会おうと言われました。僕は喜んで自宅に招待し、横浜の三渓園を散策し、一緒に手巻き寿司を食べ(エスビョルンは菜食主義なので魚は食べないのですが)、とても楽しい時間を過ごしました。
その時に彼に言われたのが、またジャズの仕事に戻らないのか?と。また一緒にやろうぜと言われたのです。サラリーマンなので、自分の意志ではどうにもならないこともありつつも、それでも僕の中では親友と呼べるエスビョルンのその言葉に心打たれ、いつか必ず戻るよ、そうしたらまた一緒にやろう!と答えたのでした。2007年12月のことです。その半年後、スキューバの事故で亡くなりました。44歳という若さでした。
僕にとってはサラリーマンを辞めてT5Jazz Recordsと言う自分のレーベルを作ったのは、そんな彼との約束を果たすことでもありました。その彼はもうこの世にはいません。しかし、彼の目指していたものや意志を少しでも理解し受け継ぐものが、ジャズの発展のために尽力すべきだし、それが最大の供養だと思ったのです。
今日はe.s.t.の音楽を聴きながら。
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